ぼんやりさんとダックスの暮らしの手帖

Mダックス・ハヤテとの毎日や山登り

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インターネットとリアルについて

昨今ある大きな出来事があり、それ以来気になり続けていることに着いて書く。ネットとリアルについてだ。
(出来ごとについて書く気は無い)
それは私の考えであり他人には全く当てはまらないと思うが書いてみる。この記事は自分以外の他者に対する批判ではなく、自己確認作業なのであります。
なので長いうえに独りごちるし、政治問題以上に他人と話し合うべきではないテーマなので勝手で済みませんが厭な方は読まないで欲しい。

_____________________

















言わずもがなだが、文字での会話には限界がある。誰もがそれを言う。
自分もそう思う時がある。

けれど、実際会って会話すればいいのかと言うと両者満足の由、解散と言う訳にはいかない。
どちらかが我慢し、どちらかが話過ぎる事だってある。控えめな人とアグレッシブな人がいるように、人づきあいのスタンスは人によって全く違う。
話していて本音が飛び出すことも、出ないこともあり、それを楽しむ。
会うからこそ、分かりあえる何かもある。
そういうあらゆる積み重ねを経て人間関係は構築されて行くものなんだろう。
現実世界で私にも友達はいるし、有難いことに耳に痛いアドバイスをくれる友人にも恵まれている。


けれど、
と同時に、と言うか
人生でどん底の時救ってくれたのはインターネットでたまたま知り合った友達や会ったことのないネットの友達だった。
それは現実世界と同様、本当に偶然の出会いで、最初はそうなる間柄だとは思ってもみないで会話をしていた。
うち、たった一人だったが結婚した夫以外、当時は最高の理解者である親友がいた。
そういう経緯があって、
だから私は現実も、ネットにおいても、相手が人である以上両方大事だと思って生きている。
もちろん、それをひとに強要したりはしない。人は人、やっぱりそれぞれだからね。




でも多分、同世代でこう思っている人は少ないし、目上の世代ではもっとそうだろう。
目上、と言ったのは偏見や十把一絡げの世代間格差みたいなもんを言いたい訳じゃなく、実感からの言葉である。
事情があって、ネットに対する考えを述べたことがある人からは大抵、理解しがたいと言う反応を貰った。
それも無理無かろうが、残念ではあった。
経験からネットを否定する人もいるし、一般論を何となく口から放出する人もいる。ぱっと見その違いは分からない。
ただ、その人にとっては厭なものなのだ、それは悲しいが仕方が無い事だ。
もちろん、この件に拘わらず、
あらゆる枠や偏見にとらわれないニュートラルな人はどの世代にも居る。
その人なりの意見は、大変参考になるものだろう。だが、残念だけど会ったことはない。



私が多感な頃インターネットは黎明期だった。
だから色んな事が可能だったし、若く柔軟だった私は何の抵抗も無くその世界を受け入れた。
後から考えてもフェイスブックもミクシィもツイッターも無かった90年代後半の国内におけるインターネットでの交流の世界は特別だった。



こう考えるようになった経緯、
自分について以下に書く。



小2の時に転校して以来性格が変わった私は学校でのそれまでの快活さがなりを潜め、ひっそりと目立たないようにやり過ごすようになった。
当時の写真の写り方も立ち位置も表情もまるで、転校前と後で違う。笑っちゃう位だ。
それなりに苛めも受けたし、厭な思いもした。

実は偏差値的に高い学校から低めの学校への転校だったようで、転校当初は勉強しなくても驚くほどいい成績が取れた。
それに味をしめた私は勉強しなくなった。勉強が厭になったのはこのころだと思う。
転校前は親友もいたし、友達も沢山居た。いつも輪の中心にいて明るく笑っていた。

しかし新しい場所で親友も友達も無くなり、気の合う友達も出来なかった。
転校前の親友とも、うまく続ける事が出来なかった。子どもにとってはお互いの間にある距離は遠すぎた。
何とか新しい環境に溶け込もうとしたが結局最後まで出来なかったし好きにもなれなかった。
”土地柄”というのは恐ろしいものだ。
本心では馴染めていないと分かっていながら、大きな違和感を感じながら、うまく合わせるしかなかった。
当時、既に自我が形成されており、自分を根本から変えることはできなかった。
教室では自分以外が全く価値観の違う人たちのように感じ、しかし逃げられない学校の中で、私なりの生き残るすべはそれだったようだ。
それは高校まで続き、荒んだ家庭環境も相まって私は酷く暗い内面と二重の陰と陽を持ったいびつな性格のまま大学に入った。
こういうの、よくある話だと思うけれど
私にとっての転校はある種人間関係の挫折で、他者への不信感ががっつり根付いてしまったんだと思う。




家庭的に一番のどん底だった大学時代、インターネットはwin95,98の台頭を受け急速に広まった。
私は楽しくて夢中になった。
運よくそれまでの人生で転校前の親友に続き、最高に気の合う友達とネットで知り合えた。
その人以外にも今でも親交がそこそこ続いているネットの友人(と私は呼ぶ)が居る。
本名も素性も知らない人から、会って話して現住所まで知っている友人もいる。勿論、自然消滅した人もいる。
でも、その人たちの存在は私の中の何かを大きく変えた。
当時、正直言って現実世界の友人たちよりはるかに自分らしく接することが出来たのが大きかった。
非常にデリケートな問題を抱えていたので、素性を知っている人には相談しにくい事情もあったのかもしれない。

あの頃、私の中でネットとリアルの比重が大きく変わったんだと思う。
そしてそれは基本的には今も変わっていない。



その基盤の上に今の私は立っていて、もちろんネットの恐ろしさや危うさは分かっているが、と同時に現実世界の恐ろしさや危うさと言うものにも非常に目が行く。
何が、というのは長くなるので書かない。
どちらともにも存在する大きな可能性をどうしても無視出来ないと言う事かな。
それぞれに、それぞれの特徴がある。両者は異なるものだが、私の中では共存しているようなのだ。


いずれにしても、人とは感覚が違うと言う事は自覚している。
ただ、自分史的に現実がこうだったもんで、こういう風にしか思えないって言うか。
結局、自分の経験以外に信じられるものなんて無いって事なのかもしれないなぁ。


だから、”今の”ネットにもその経験値によるスタンスをあてはめて考えがちなところもあるかもしれない。
だから生まれたときからネットを活用している20代より若い人たちともまた違う価値観のような気もする。
私のように生きていたのではない同世代にも、その上の世代の人たちにも、つまり自分以外の他者の価値観は中々分からないかもしれない。
でも出来るだけ想像上だけでも納得したいし、納得してほしい。
違う事を認めることで見えてくる何かもあるはずだと思いたいし、そうありたい。
今の私にはそういう努力が必要なんだと思う。


まあ、本来こう言う事は自分の中にだけあればいいことで、こう言うところで書くべきじゃないかもしれない。
(その意味でのお叱りは甘んじてお受けするつもり)
ただ、中々自分をうまく表現できない人間なので、一番得意な方法(文章)で表現しておきたかったのであります。

書いてみて気が付いたけれど、インターネットから構築される人間関係に関することって、自分にとっては非常にデリケートな問題なのだな、と思い知った今日でした 笑


これを読んで下さった方、ネットにおいても現実においてもこんな変な奴とお付き合いありがとうです 笑
通りすがりの方には、重くてすいません、とお伝えしたいです。

ちょっと暗く書きすぎたけど
要は私は楽しく過ごしたいのです、リアルでも、ネットでも。
どちらかに酷く重く依存する気も無いし、その予定もありません。
現実では周りの人に恵まれているし、だから例えば今現在ネットにおいて理解者を捜しているわけでもないし、今は結構ライトな気持ちでインターネットと付き合っています。
つまり、何が言いたいかというと
どっちがどう、とか、世界を分ける考え方ではなく、今迄通り必要なもの、大切と思えるものを大切にして行きたいだけ、
それで家族や友人(どちらの世界共)を傷つけたくはないし、それは意に反します。いまお付き合いのある方は、いま私が大切にしていたい関係を持つ方々なのです。


ここまで読んでくれてありがとうございました。
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